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行幸啓と遷都(続き)
2012/10/30(Tue)
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これは前にも出したことがあるかもしれないが、淀競馬場の駐車場とスタンドを結ぶ陸橋の下 (歩行者地下道の上) にある 「戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)戦没者の慰霊碑」である。
今回は直接、鳥羽伏見の戦いのことを書こうとは思わないが、写真ブログなので、東京遷都とも競馬場とも関係のあるこの写真を出しておこうと思う。

 よく知られているように古代においては、宮(都)は天皇ごと、あるいは同一天皇の間でさえ頻繁に変わっている。
 第26代継体天皇(6世紀前半・以前、高槻市にある継体天皇陵の写真も、痛風治療の帰りに寄ったということで出した)は樟葉(くずは・京阪電車の淀の大阪寄り手前)、筒城(つつき・京田辺市)、弟国(おとくに・長岡京市)、磐余玉穂(いわれのたまほ・奈良桜井市)の四ヶ所の都を作ったと言われているし、東大寺で有名な奈良時代の第45代聖武天皇でも平城京を離れ、恭仁(くに・木津川市)、難波(なにわ・大阪市ど真ん中)、紫香楽(しがらき・滋賀甲賀市)の三つの都を作ったと言われる。
 しかしこれは想像するに、つまり天皇が供を連れて旅して(諸国視察とか、あるいは“方違え”など陰陽道の験かつぎもあったのかもしれない)「しばらくここに滞在する」と言い、「しばらく滞在する?じゃあ都じゃないか」と供の者が判断したという、そういうことだろう。
 行在所(あんざいしょ)→ 行宮(あんぐう)→ 宮(都)は、ほとんど差がなかったということではないだろうか。逆に言えば、行幸とか行幸啓というのは「ひょっとしたら遷都?」を考えさせるほど重要だったということでもある。おばちゃんたちが組を作って「ちょっと紅葉狩りして、あと温泉浸かってきまーす」という“旅行”とは訳が違う。
「そうか、大昔はそういうことだったのかもしれないなあ」などと考えてはいけない。この「行幸」の重要性はごく最近でも同じく言える。個人的にちょっと調べたのは、150年ほど前の“東京遷都”だ。
「明治になって、江戸を東京と改名し、新しく首都として定められた」とみんな思っているが、「今日から、京都ではなく東京を首都とする」という宣言が出されたことは一度もない。“王政復古の大号令”や“五箇条のご誓文”は出されたが、“遷都宣言”は一切出されていない。憲法や法令で定められたこともない。
 あるのは「行幸」と「還幸」の変化だけだ。
 行幸は“行き”で、“還幸”は帰りだ。出張がちの亭主が家から出て行くとき、子供が「もう帰るの?また来てね」と言うので涙が出たという、あれだ。
 京都競馬場の北、現在の京阪電車線路あたりをかつて“千両松”と呼び、鳥羽・伏見の戦い最大の激戦が行われたが、その鳥羽・伏見の戦いのあった明治元年(1868年)から三年にかけて、明治天皇は二度、京都と江戸(東京)の間を移動している。「行幸」だ。 一度目は明治元年9月に東幸、12月に西幸。
 二度目は明治二年1月に東幸、翌年には大嘗祭(だいじょうさい・天皇となって初めての新嘗祭)のために西幸するとされながら、それは結局かなわず、明治天皇はこれ以後東京で生活し、明治三年11月の大嘗祭は結局東京で行われることになる。
 しかし、ここで重要なのは京都から東京に行く東幸は「行幸」、東京から京都に行く西幸は「還幸」と呼ばれたことだ。還幸とはつまり、天皇が帰るということで、つまり「東京に“行く”、京都に“帰る”」だった訳だ。
 しかし明治五年になって「これからは京都への西幸も“行幸”とする」という発表があった。「これからは“京都に帰る”ではなく、“京都に行く”とする」という発表であり、つまりこれが「東京遷都宣言」にとって替わるものだった。(ただし大正天皇と昭和天皇においては即位の礼と大嘗祭は京都で行われ、現・平成天皇になって初めて即位の礼と大嘗祭が東京で行われた)。
 現在、首都機能の移転問題とか遷都問題などが言われているが、たとえ国会や首相や最高裁判所なんかが、例えば全部信州の山の中へ引っ越したとしても、天皇が東京千代田の皇居にいる限り、首都はビクともしない。東京から首相のいる信州山中へ行くのは「行幸」であり、その山の中から東京に帰ってくるのは「還幸」だからだ。
 逆に国会や首相やすべての国家官僚が東京にいたとしても、もしも天皇が「ここ、信州の山の中に住む。絶対ここから離れない」と言えば、すでに遷都である。この伝統・決まり事は、たとえ法令の定めがなくとも、千数百年に及ぶ日本の黙契である。
 行幸(行幸啓)があれば行宮を思い、行宮があれば遷都を思う。これは象徴天皇制の現代にあっても何も変わっていない。
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行宮(あんぐう)
2012/10/30(Tue)
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 この古地図は足利健亮(けんすけ)という人の書いた「日本古代地理研究」という本の中にあるものだ。
 この本は凄い。目からウロコの連続だった。
 しかし世の中には偉い学者がいるもんだなあと思ったときにはもう遅い。足利健亮は10年ほど前、60歳そこそこの若さで既に亡くなっている。したがって著作も少ない。「たどり着いたらいつも雨降り」という、吉田拓郎の歌の歌詞を思い出した。
 ちょっと見にくいけど、猪名川、武庫川あたりの古代道路地図で、汚い字で「阪神競馬場」と書き、楕円トラックを書き込んだのはぼくである。
 足利健亮は「宝塚への真っ直ぐな道」を主張した。
 古代の“作り道”はすべて真っ直ぐだったらしい。
 特に摂津国西部、現在の伊丹、宝塚、西宮辺りには奈良時代の“普請僧”行基によって整備された大きな作り道が二つある。
 一つは山城(後の京都)から播磨・吉備に至る北東から南西への“山陽道”(江戸時代には西国街道、現在は国道171号線)であり、もう一つは聖武天皇の難波宮西大路(現在の天神橋筋)の北端・長柄橋から猪名川、武庫川を越えて宝塚から有間(有馬)に至る、南東から北西への“有間道”である。そしてこの山陽道と有間道が交わる交点(地図中央)が昆陽寺(こやでら)のある伊丹市昆陽里(こやのさと)だ。
 昆陽里は今は野球で有名だ。楽天の田中将大と巨人の坂本勇人は“昆陽里タイガース”という少年チームで野球を始め(当時は田中が捕手、坂本が投手)で、田中は駒大苫小牧、坂本は青森光星学院に進み、共に甲子園で活躍する。地図の右上から左下に伸びる西国街道はちょうど今の甲子園あたりに通じている。「昆陽は昔から甲子園に通じていた」。
 一方、昆陽里を南東から北西に進む“有間道”(地図の右下から左上に伸びる)はどうだ。この真っ直ぐな作り道の一部は現存し、昆陽里から北西に1キロ進めば、武庫川に突き当たる。
 川向こうは阪神競馬場の大屋根だ。現在そこに橋はないが、昔は砂州の間に小橋もあり、飛鳥時代の孝徳天皇はこの橋を渡って何度も宝塚から有間(有馬)に湯治に行き、同行の小足媛(おたらしひめ)との間に出来た子に「有間皇子(ありまのみこ)」と名付けた(有間皇子は天智天皇によって謀殺されたと言われている)。
 天皇の湯治には行宮(あんぐう・仮御所)が必要だが、孝徳天皇の“武庫行宮”は阪神競馬場北隣にあった。「美幸(御幸)町」とか「御所の前町」という競馬場北の地名はその名残というのが足利健亮の主張である。
 阪神競馬場の北には行宮があった。行宮があるということはひょっとして都と呼ばれる可能性もあったということだ。武庫川西遷都があった可能性もある。
 もちろん行宮があったとされる場所は、日本各地に残る。淀の近く石清水八幡宮にもある。これはごく近代、明治天皇の行宮である。
 東京遷都の前に、大久保利通によって大阪遷都が主張されたことがあるが、このとき明治天皇は鳥羽伏見の戦いの直後、その最激戦地・淀のあたりを通り、石清水八幡宮を行宮として(徳川慶喜が軍艦で逃げ出した)大阪まで行った。
 大阪遷都は結局ならず、江戸を東京と呼び替えて東京遷都となった訳だが、この東京遷都も不思議なところが多い。
「天皇賞」と「行幸啓」と「遷都」の話、もう少し書きたい。
 興味のある人はついてきてください。
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行幸啓の天皇賞馬
2012/10/29(Mon)
エイシンフラッシュ3
勝ったなあ、エイシンフラッシュ。
調教映像もよかったし、あとからこの天皇賞ゼッケンの馬体を見ても黒光りしてピカピカだ。
なんでレース前に気付かないのか、バカバカバカ。

ミルコ・デムーロの 「騎士のような騎手礼」 にも感心したが、個人的にはJRAが「行幸啓」と、言葉を選んで天皇・皇后を紹介していたのが印象深かった。

また歴史の話で、誰も読まないかもしれない。先日の平宗盛塚の写真も、誰からも何の反応もなく、落ち込んでいたが (まあ競馬ファンが見るブログだからしょうがないんだけど)、ただ一人、畑端省吾騎手が 「いま、乗峯さんが書いてた “野路の篠原” NHK滋賀ローカルのニュースでやってました。ぼく、歴史好きなんです」と電話くれた。勇気百倍だった。
じゃによって、今回も競馬とちょっと離れるかもしれないが、歴史の話を書く。

秋の天皇賞の両陛下臨席は7年ぶりということだが、春の天皇賞の天皇臨席は、ぼくの記憶では一度もない。大昔はあったんだろうか?
関西の競馬人間として、関西こそ天皇中心の日本史を作ってきたと信じる人間として、これは悲しいことだ。
ちょっと古い競馬ファンなら覚えていると思うが、昭和時代、春の天皇賞は、必ず4月29日の天皇誕生日に行われていた。祝日とはいえ、天皇誕生日が日曜と重ならない限り前日発売が出来ないから、売上げはダウンする。
「天皇誕生日近辺の日曜にやろうや」という意見もあったが、古い調教師たちを中心に「天皇誕生日に開催できないで、何が天皇賞か」という意見が支配的だった。
そこまでして天皇誕生日にやろうとしたのだから、天皇臨席があってもよかったように思うが (でも冷静に考えれば天皇誕生日に昭和天皇が皇居から動くということは考えられないね。平成のいまなら別だけど)。

しかしと、ここからが歴史の話だ。
京都に天皇がやってくるというのは特別の意味を持つ。
「行幸」は天皇の移動、「行幸啓」は天皇・皇后の移動を表すが、奈良時代あたりまで、行幸の途中で天皇が休めば、そこは「行在所(あんざいしょ)」と呼ばれ、もし何日か滞在すれば「行宮(あんぐう)」と呼ばれ、すでにそこは仮の都となる。

ああ、長くなりそうなので、またあとで続き書きます (でも誰も読まないんだろうなあ)。
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新怪物か
2012/10/27(Sat)
カレンブラックヒル(平田)
そうそうたる古馬陣を押さえて、土曜昼現在1・8倍の単勝オッズになっているカレンブラックヒルだ。
このオレンジで統一された平田軍団の一番前の馬です。

といっても、残念ながら最近の写真ではなくて、2月初旬、新馬戦を快勝した直後あたりに撮ったものです。
(最近の写真を探したんだけど、残念ながらこれしかなかった、悔しい)
このときは5連勝、無傷で秋の天皇賞に臨むなどとは、まさか陣営も考えてなかったことだろう。

開業早々、ベッラレイアという馬を得て、厩舎行って「開業早々すごい馬にブチあたりましたねえ」と言い、「あ、ブチあたったは失礼か」と言い直したが、平田調教師は「いや、まさにブチ当たったという感じですよ」と笑っていた。
そのベッラレイアは、ウオッカ、ダイワスカーレットと同世代で、この世代でなければGⅠの一つや二つ取れていただろうが、2強の抜けたオークスでも、あと一歩のところでローブデコルテにやられるなど、紙一重のところで大魚を逃した。
GⅠて厳しいなあと、平田調教師も思ったことだろうが、でもコツコツやっていれば、こういうブラックヒルのような逸物に出会う。

個人的には1・8倍の馬は買わないが、無敗のスーパースターが出れば競馬界は盛り上がる。
2千のGⅠを勝てば、オルフェーヴルとの対戦も期待できる。
馬券外れても、ブラックヒルが勝てば、それはそれで嬉しい。諦めがつく。

そう、この 「諦めがつく」 こそ、わが35年競馬歴から絞り出した処世訓だ。
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須貝・内田コンビ
2012/10/26(Fri)
ジャスタウェイ3
ゴールドシップの同厩舎同期生で、一緒に菊花賞に出るのかと思っていたジャスタウェイだが、天皇賞に回る。
菊花賞はゴールドで固いと思っての措置か。

鞍上はゴールドシップと同じ内田博幸、柳の下にどしょうが2匹いるかということだが、前走毎日王冠で、ただ一頭後方からカレンブラックヒルに迫った脚は相当なものだった。

乗ってる厩舎、乗ってる騎手には付いていくという手もある。
ゴールドシップほどの人気は全然ないみたいだから。
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はるか望遠ですが
2012/10/19(Fri)
タガノビッグバン
かなりの数の菊花賞ゼッケン馬を撮ったんだけど、まあゴールドシップの次はディープブリランテだろうと思っていた。
「ブリランテですか?ブリランテなら8時半に坂路逍遙馬道らしいですよ」と教えてくれる人がいて、「お、8時半なら間に合う」と、平場コース1コーナーから2コーナーの長い外周通路を歩いて、そこから坂路上って、しかしその努力のかいあって、岩田康誠騎乗のブリランテの写真を10枚以上は撮ることが出来た。
しかしその翌日、脚部不安、菊花賞回避とは。
でも、レース使って取り返しのつかないことになるよりは遙かによかった。
それも馬券購入者に迷惑をかけない木曜決定なら、なおいい。
じっくり調整して、来年また「さすがダービー馬」という走りを見せて欲しい。

しかし、ブリランテ回避で、がぜん「1強ムード」になってきた。
金曜オッズでは、ゴールドシップが1倍台で、2番人気は7月に未勝利をようやく脱出したタガノビッグバンになっている。
95年のマヤノトップガンみたいなことがあるんだろうか?
でも調べてみるに、トップガンでも3月には未勝利脱出しているし、神戸新聞杯でも2着に来ている。
7月初勝利の馬が菊花賞勝てば、これは記録ではないだろうか?

そんなことより写真だが、「あ、あの向こうの方に菊花賞ゼッケンがいる!」と、下見所で慌てて望遠一杯にして撮ったのがこのタガノビッグバンである。
きわめて見にくい。(ちなみに左の馬は同じ本田厩舎のバトルドンジョンです)
でも、もしビッグバンが菊花賞勝てば、個人的には貴重な一枚になるのだが。
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夕焼けではない
2012/10/18(Thu)
朝焼け1
調教スタンド前の時計塔です。
10月17日(水)6時2分、見事な朝焼けだ。(なぜか調教終わりの午前10時頃から猛烈に雨が降り出したが)
「見事な朝焼けを思わず撮ったんですね」 などと思ってもらっては困る。
6時馬場開場のいまの時期、この6時2分というのは、最も大物たちが追い切っている時刻である。
呑気に朝焼けなど撮っていてはいけないのである。
しかし5時50分 「もうどう頑張っても、坂路一番調教のはずのゴールドシップ追い切りには間に合わない。最低でもここから坂路上まで15分はかかるから」 と悟り、「しょうがない、今日は平場の下見所で菊花賞ゼッケン、天皇賞ゼッケンを見つけよう」 と決め、ふと時計台の方を見ると、見事な朝焼けで、つまりこの写真は 「諦めの境地」 を表している一枚なのである。
この写真からそこまで読み切れた人はエラい!
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メイショウ関白太政大臣
2012/10/09(Tue)
メイショウカンパク
やりましたねえ、メイショウカンパク。
池添謙一の「なぜオレを凱旋門賞に使わないんだ!」のデモンストレーションだったんだろうねえ。
ぼくは同じ荒川厩舎のギュスターヴクライ頭の三連単でいって、カンパクはちゃんとヒモに入れてるし、ギュスタもちゃんと3着に入ってるし (直線入ったところでは勝ったと思ったんだけど) 半分ぐらい、くれー!

この写真は今年春の天皇賞前のメイショウカンパクです。
長年苦労してきたカンパクは待望の天皇賞には出られず、天皇賞ゼッケンも付けていないが、この秋の天皇賞は大威張りだろう。
でも、期待はやっぱり来春の長距離天皇賞か。
なんといっても、天皇と関白はツーカーの関係だからね。

メイショウカンパクといえば、約2年半前のシンザン記念が忘れられない。
このレース、カンパク◎にして (結果13着) スポニチコラムに「尿検査はメイショウ蛋白」と見出し書いて出したんだけど、当日面では普通の見出しに直されていた。
「あまりに下品だ」と判断されたのだろう。
これも、土日クビになった一因だったかもしれない。

あと、この写真、鞍上は当ブログでも馴染み、荒川厩舎スポークスマンでもある佐藤淳助手です。
当ブログのリンク「ブックログ」のところにも出しているし、佐藤助手のことは当ブログ以外にも色々書いてきたが、この歳、もう一度、あたらためて紹介してみたい。
写真の通り、見た目はなかなかカッコいいし、ぼくが荒川厩舎応援する源泉でもあるのだが、不思議なところの多い調教助手だ。
九州小倉の病院長の息子で、いずれ医者にという両親の期待を“裏切って”この世界に入る。妹「佐藤麻衣子」さんは有名なヨット選手で、シドニー・アテネと二大会連続でオリンピックに出た。
兄は乗馬、妹はヨット、さらに奥さんはハワイ大学出身のバイリンガルで、これだけみると“ハイソ人種”の典型のようだが、どうも昔から鬱屈しているところがあって一筋縄ではいかない。
長い独身生活の間もひたすらトレセン独身寮にこもり、「大丈夫か、淳ちゃん?」と思わせるところがあったが、急に豪華なバイクや、高いロードレーサー(自転車)を買って乗り回したりして周囲を唖然とさせた。
ある宴会のあと一緒に路地裏で立ち小便していたとき、周りが真っ暗で二人してドブにはまったことがある。「なんでや」とぼくが騒いでいると「乗峯さん、ぼくらの人生はこんなもんですよ」と淳ちゃん言って驚きもせず、ずぶ濡れ、臭いままのスボンで平気で歩いて行った。
てっきり一生独身なんだろうと思っていたが、7年ほど前、ハワイ在住の女性(どこでどう知り合ったのか全然分からん)と急激に結婚する。子供は作らないんだろうと思っていたが、いまは4歳ぐらいになる息子までいる。不可解だ。
でもいまでも一番印象深いのは、以前、内藤厩舎にいた96年ごろの話だ。
当時マルカダイシスという馬をを持ち乗り(調教と厩務を兼務)で担当していて、ユウ癖(体が揺れる)など特殊な癖があってなかなか未勝利を脱出できないマルカダイシスを、馬房内に畳を吊したり、リンゴのおもちゃを置いて注意をひいたりと様々な工夫をしながら矯正し、4連勝のあとGⅡ鳴尾記念を勝たせ、有馬出走まで果たした。
わずか半年で、未勝利から有馬記念へというシンデレラ・ストーリーはそうないはずだ。
でも、当時、佐藤助手はまだ20代半ばの若手だったこともあり、トレセンスタッフの間で「内藤厩舎の佐藤ってやつ、マルカダイシス連勝でテングになってるらしい」という噂を聞く。
そんな、いくら口の悪いトレセンといってもそんなことまで言わないでいいのに、内藤厩舎行って励ましてやろうと、厩舎に近づくと「やあ乗峯さん」と馬上から声が掛かる。
振り向くと「おはようございます、テング佐藤です」とマルカダイシスに乗った佐藤助手から声がかかる。淳ちゃんのヘルメットの上にはテングの面がしっかり乗っかっていた。昔からそういう男だった。

佐藤淳助手、もう一つ思い出がある。安藤厩舎所属時代の2005年、前ローマ法王・ヨハネ・パウロ2世が死去して次の法王をどうやって決めるかが延々報道されていた時期がある。
「新ローマ法王選出コンクラーベは三分の二の指名を得られなければ延々投票が続きます」というニュース解説を聞いて、大多数の日本人が「根比べやなあ」とダジャレを呟いた、あの時期だ。
「投票で決しないときは各国枢機卿たちは休んだり、祈ったりします」という解説には感心した。疲れて休むのは分かるが、祈るんだ、こういうときカトリックの偉い人は。「テメエ、何であんなヤツに投票した」とすごんだりはせず、祈っているうちに解決に向かうものらしい。
このとき安藤厩舎行って「不思議な世界だよねえ」と話していると、佐藤淳助手、じっと天井を見て「ヨハネ・パウロ2世みたいな人が厩舎にいてくれたらなあ」と溜息をついた。
「あのね、淳ちゃん、投票の合間にでも祈るんやで。困るやろ、そんな人が厩舎にいたら。馬洗ってカイバつけてくれと言われて、その前にまず今日のカテと世界平和への祈りを行いましょうって言うんやで。延々黙祷してたりしていて、そんなスタッフがいたら、馬イラついて暴れだすで」と説得したが、佐藤助手の耳には届かない。
「勝った負けたの戦いの日々、家庭でも結局一人だし、新聞コラムにも“佐藤は変態だ”みたいなことを書く人もいるし、ああ、ヨハネ・パウロ2世みたいな人が厩舎にいたら、きっと癒されるだろうなあ」
呟き続ける淳ちゃんの両手がさりげなく胸の前で組まれていた。このとき結婚3年目だった佐藤助手、何かあったのかもしれない。その後すぐ「一生子供は作らない」と言っていた佐藤助手夫妻に子供が出来た。
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苦労人ナイスミーチュー
2012/10/01(Mon)
ナイスミーチュー小牧太・ローズキングダム上村
シリウスS、ナイスミーチューが5歳にして、ついに重賞を手にした。

ナイスミーチューは小牧太騎乗で、よく坂路で見かける。
3歳の春に2勝したが、4歳時は未勝利、しかし大きな故障をすることもなく、よく調教にはげんできた。
この写真は、その長い低迷期に入った3歳の秋、菊花賞ゼッケンを付けた同期生ローズキングダム(鞍上は上村洋行)の前を、まるで露払いするように歩くナイスミーチューである。

ローズキングダムのダービー直前に騎乗停止になり、それ以後、小牧太はローズに乗ることはない。あの、後藤騎乗のダービーでローズが2着に来たときの小牧太の悔しさは、想像に余りある。
ローズはこのあと、武豊騎乗で菊花賞1番人気2着のあと、ブエナビスタの斜行降着もあって、ジャパンカップを制することになる。

単なる偶然なのだろうが、この写真のナイスミーチューに乗っている小牧太は何だか寂しそうだ。
しかし、この写真から2年経って、ついにナイスミーチューも重賞馬の仲間入りをした。それも圧巻の末脚だった。
大器晩成の典型なのかもしれない。
おめでとう。

今週、土日(月とも言えるが)、阪神のメインを制した橋口厩舎(馬券も取らせてもらった)、調子は上がってきた。
京都大賞典のローズももちろんだが、スクワドロンのデイリー杯も一発やってくれないだろうか。POGで取ってるもので、はい。
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