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ハナズの次はポツプ
2013/01/26(Sat)
ポップアップハート・石崎助手3
しばらくさぼっておりましたが、水曜は今年初めてトレセン訪問してきました。
まず、何はさておき、マイケル・オーナーとも、加藤和調教師とも、野本厩務員とも知り合い (のはずの) ハナズゴールのところへ行って、京都牝Sのお祝い言って、写真をと思ったのだが、関東出張馬房、珍しく閑散としている。
乗り運動に出ているとしても、馬が生活している気配の馬房は一つか二つしかない。
こういうのは最近では珍しい。
桜花賞が近くなれば、ほぼ満杯になり、もう一つある予備のような厩舎まで賑わうはずだと思うが。

ハナズは4月の阪神牝Sに使うという話だから、それまで栗東にいるんじゃないかと思ったが、関東に帰ったんだろうか?まあとりあえず、そのへん一周して、もう一回戻ってきて、それでも誰もいなければ諦めようなどと、考える。
で、2回目訪れたら、一頭の馬の洗浄中だった。ようやく一人の人に巡り会えたわけだ。
「あのハナズゴールは?」と聞くと、「ああ、昨日、美浦に帰りましたよ」と言われる。
「ああ、そうですか。・・・つぎ、いつ頃、こっち来るか、・・・そんなの分かりませんよねえ」
「分かりませんねえ」
 おかしな問答だった。同じ加藤厩舎の人ならまだしも、この人はたぶん関東のほかの厩舎の人だろうから、よその厩舎の馬の動向なんか分かるわけないのだ。
 それでスコズコ帰ろうとしたのだが、ふと思い出し、またUターンする。
「あの、何度もすいませんが、今日坂路で外国人騎手が乗って、ベリーグッドとか何とか言ってた関東ゼッケンの馬がいたんですけど、あれはひょっとして・・・」
「ああ、この馬ですよ。ポップアップハートと言います。今週使います」
「え、今週ということは?」
「京都の梅花賞です」
「そうですか、じゃあ、あの外国人騎手は?」
「ルメールですね」

 帰って調べてみたら、ポップアップハートというのは小島茂厩舎じゃないか。個人的に関東で一番親しい調教師だし、栗東滞在で実績を上げている厩舎だし、梅花賞の成績次第では春まで栗東滞在するんじゃないだろうか。ちょっと楽しみだ。
 ハナズの次はポップアップにならないものか。
 あ、ちなみにこの担当者は石崎助手というそうだ。栗東滞在の小島茂厩舎スタッフでは初めて会う人だが、茂さんが送り込んできたんだから、きっとやり手なんだろう。
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そういえば
2013/01/08(Tue)
003_20130108232514.jpg
そういえば、ぼくは18年前ぐらい前、別冊宝島193「競馬名馬読本2」という本で、ヤマニンウエープという馬のことを書いたことがある。
取材先は新井厩舎の久田金作厩務員だった。
いま、そのときのことを書こうと思ったのだが、文章自体がわがパソコンに残っていたので、これを出すことにする。
要は、このヤマニンウエープ (中村覚之助厩舎、たぶんビートブラックの中村均調教師のお父さんだ。久田金作厩務員担当)が天皇賞勝ったのが、昭和47年(1972年)秋(当時は秋天も3200だった)で、つまり下のロングエース、ランドプリンス、イシノヒカル、タイテエムの4強が3歳クラシックで争っていたその年の秋に勝った訳だ。
つまり、ずいぶん間はあいたが、昭和47年秋天皇賞馬の担当者と、昭和48年春天皇賞馬の担当者を両方知ったわけだ。
この94年の取材当時で、久田さん、65歳近かったから、いまはもう80過ぎか。元気なのかなあ。

[以下、別札宝島「競馬名馬読本2」に書いたヤマニンウエーブについてわが原稿です。ぼくも若かったよなあ]      
 一昨年から大阪のスポーツ紙で予想コラムを書くことになり、“取材”の名目で栗東トレセンに時々出掛けることになった。
 広い敷地に多くの関係者と馬が行き来しているが、誰一人知らない。馬だって、どれがどの馬かさっぱり見分けがつかない。「困ったなあ」と何度も溜息が出るが、意を決して一つの廐舎に飛び込む。ジンクタモンオーという、どうしても見てみたい馬がいた。
 タモンオーは91年小倉3歳ステークスを好タイムで圧勝し、間違いなくクラシック級だと言われながら、突然ゲートから出なくなった。ゲート入りの悪い馬というのはいても、ゲートが開いてるのに走らないというのは前代未聞だと言われた。地下鉄の改札を出たところで、壁に手をつき、イヤイヤしている“出社拒否願望”のお父さんを見るようで、大きな興味がわいた。
 「ジンクタモンオー、見せてもらえますか」上ずった声が出る。何しろ、廐舎という所、偏屈で怖い人が多いと聞いていたから、緊張の一瞬だ。
 廐舎の外で寝ワラを片付けていた廐務員がゆっくり振り向く。
 「あの、ジンクタモンオー・・」と繰り返すと、「ああ、アンダ」と廐務員は顎で示す。 「中、入っていいですか?」
 「ああ、カンジルクセアルデナ、キィツケネバナンネド」
 よく聞き取れず、「何じゃ?」と思ったが、オズオズ中に入る。500キロを超すタモンオーが時々ニッと歯を剥いて、やっと納得した。「噛む(カジル)癖があるから気を付けろ」と言ってくれてたんだ。
 それが久田(きゅうでん)金作廐務員との最初の会話だった。突っ込んだことを聞くと「テキ(調教師)に聞いてくれ」と答えてくれない廐務員が多い中、久田金作は訪ねるたび、タモンオーのことはもちろん、廐舎スラングから、馬のウンコ・シッコやオナニーのことまで、独特の津軽弁で教えてくれた。
 この人が昭和47年秋の天皇賞馬ヤマニンウエーブを手掛けた、ということは大分あとになってから知った。
 久田金作は昭和3年、十和田の生まれ。故郷の苫米地(とまべち)牧場にいたが、41才のとき中京競馬場・中村覚之助廐舎に来た。生産専門から育成牧場へ事業を拡大するための研修ということで、1、2年で青森に帰る予定だった。
 その年、同じように北海道から2才で入廐してきた馬が、廐舎の片隅にいた。3才になっても、岩陥(いわおち)とよばれる筋肉欠損のため、左前脚がスムーズに出ない。廐舎では「乗馬に下ろすしかないか」と言われていた。それを「ダメで元々」で世話し始めたのが研修生・久田金作。ちょうどこの年、関西競馬サークルでは“栗東トレセン大移動”が行われ、廐舎では見込みのない馬に手間暇をかけていられなかった。ヤマニンウエーブと久田金作にはいくつかのラッキーが重なっていたのだ。
 「でも、結果としては、ヤマニンウエーブが久田さんを青森へ帰らせないようにした訳だよね」廐舎の前にしゃがみ込んで話を聞く。
 「まあ、そうも言えるども、何と言うてもネサ、牧場よりこっちの方が楽だかんな」久田金作は地べたに、石ころで「楽」という字を書いた。「それにキュウリョもいがったしな」今度は「給料」という字を書いた。
 6才秋に、生涯ただ一度のピークを迎えたヤマニンウエーブ。私は、廐舎の前の地べたに書かれた「楽」と「給料」の二つの字を見て思った。“晩成の一発馬”は恐らく担当廐務員から“津軽の粘着”を受け継いでいたのだ。
 帰り際、「今年(93年)一杯で65歳の定年だからヨ」と呟きながら、久田金作はまた地べたに地図を書き始める。
 「ここに橋があって・・、ここが滋賀銀行だろ・・、そんで、ここんとこがウチだからよ、いつでも遊びに来たらイイベ」
 定年後も青森には帰らず、栗東で暮らすそうだ。タモンオーは美浦転廐、久田金作は定年退職。トレセン行き始めてわずか2年だが、それでも時は流れている。

 これで原稿終わるつもりだったが、締め切り直前、いい写真見つけた。JRAピーアールセンターにあった『優駿』昭和48年1月号。これがヤマニンウエーブと、23歳・この年リーディングに輝いた天才福永洋一と、44歳・若き日の久田金作です。

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誰でしょう?
2013/01/08(Tue)
松田正則元厩務員縮小板
年末28日(東京大賞典の日を間違えて、失意のうちに園田行った日の前々日)川島信二騎手主催の「旧安藤厩舎忘年会」というのが栗東であった。
川島信二という騎手は若いのにえらいなあと思う。
もう5年以上前に解散した厩舎であり、番頭格だった安藤清治助手(安藤元調教師の長男)が40過ぎの若さで急逝し、柳田さんというスタッフ(ぼくはよく知らないが)も亡くなったそうだが、その人たちの慰霊も込めて、毎年、自分のデビューを支えてくれた厩舎の宴会を催している。

その宴会の席で偶然隣になったのが、この人だ。
(一番奥左で真面目そうに飲んでいるのは、当コーナーでも馴染みの、ちょっと変わったところのある現荒川厩舎・佐藤淳助手だ)
もう71歳だそうで、つまり6年前に定年退職している(安藤厩舎解散と共に退職したのかな?)わけだが、若い頃は京都競馬場付きの厩舎で下乗りもしていたという。
栗東トレセンは1970年だか、71年だかに開設されているが、それまで京都・阪神・中京と、競馬場付きで、競馬場の馬場を使って調教していた厩舎を栗東一カ所に集めたわけだ。
それは大変な難事業だったとは思うが、もういまとなっては栗東トレセン開設前の競馬場時代の厩舎を知っている人は、現役ではほとんどいないと思う。

この人は松田正則さんといって、最後は安藤厩舎の厩務員だった訳だが、京都競馬場時代の、武田文吾厩舎やシンザンの話なんかも色々聞かせてくれた。
松田さんも酔っ払っているし、聞くこっち側ももちろん酔っ払っているから、定かでないところも多いが、「昔はタイテエムを担当していた」と聞いたときにはビックリした。
タイテエムは昭和48年(1973年、天皇賞直前の皐月賞ではハイセイコーが勝って盛り上がった年だ)春の天皇賞を勝った馬だ。(厩舎がトレセンに移動してすぐの頃だった訳だ)
ロングエース、ランドプリンス、イシノヒカルと共に4強の一角と言われながら、クラシックはついに無縁に終わった(ダービーはロングエースの3着、菊花賞はイシノヒカルの2着)。
それが翌年の春の天皇賞でようやくGⅠ獲得となる(このあたり、昭和52年春天皇賞のテンポイントとよく似ている)。
四白流星(流星というよりサクというのか、幅広い白帯を持つ)のハデな馬で「貴公子」と呼ばれ、天皇賞を勝ったときには「無冠の貴公子に春が訪れます!」という、杉本アナの名フレーズの一つが出た。

調べてみると、タイテエムというのはいまの橋田調教師のお父さん、橋田俊三調教師が管理していたらしいから、この松田さんは安藤厩舎の前は橋田俊三厩舎に所属していたんだろう。
天皇賞勝ったときの騎手は須貝彦三、つまり昨年猛烈な勢いでブレイクした須貝尚介調教師のお父さんだ。
まあ、古い話やわなあ。
でも、古い話、特にトレセン開設以前の話を聞くというのは、驚きの連続で興味深いものがある。
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