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行宮(あんぐう)
2012/10/30(Tue)
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 この古地図は足利健亮(けんすけ)という人の書いた「日本古代地理研究」という本の中にあるものだ。
 この本は凄い。目からウロコの連続だった。
 しかし世の中には偉い学者がいるもんだなあと思ったときにはもう遅い。足利健亮は10年ほど前、60歳そこそこの若さで既に亡くなっている。したがって著作も少ない。「たどり着いたらいつも雨降り」という、吉田拓郎の歌の歌詞を思い出した。
 ちょっと見にくいけど、猪名川、武庫川あたりの古代道路地図で、汚い字で「阪神競馬場」と書き、楕円トラックを書き込んだのはぼくである。
 足利健亮は「宝塚への真っ直ぐな道」を主張した。
 古代の“作り道”はすべて真っ直ぐだったらしい。
 特に摂津国西部、現在の伊丹、宝塚、西宮辺りには奈良時代の“普請僧”行基によって整備された大きな作り道が二つある。
 一つは山城(後の京都)から播磨・吉備に至る北東から南西への“山陽道”(江戸時代には西国街道、現在は国道171号線)であり、もう一つは聖武天皇の難波宮西大路(現在の天神橋筋)の北端・長柄橋から猪名川、武庫川を越えて宝塚から有間(有馬)に至る、南東から北西への“有間道”である。そしてこの山陽道と有間道が交わる交点(地図中央)が昆陽寺(こやでら)のある伊丹市昆陽里(こやのさと)だ。
 昆陽里は今は野球で有名だ。楽天の田中将大と巨人の坂本勇人は“昆陽里タイガース”という少年チームで野球を始め(当時は田中が捕手、坂本が投手)で、田中は駒大苫小牧、坂本は青森光星学院に進み、共に甲子園で活躍する。地図の右上から左下に伸びる西国街道はちょうど今の甲子園あたりに通じている。「昆陽は昔から甲子園に通じていた」。
 一方、昆陽里を南東から北西に進む“有間道”(地図の右下から左上に伸びる)はどうだ。この真っ直ぐな作り道の一部は現存し、昆陽里から北西に1キロ進めば、武庫川に突き当たる。
 川向こうは阪神競馬場の大屋根だ。現在そこに橋はないが、昔は砂州の間に小橋もあり、飛鳥時代の孝徳天皇はこの橋を渡って何度も宝塚から有間(有馬)に湯治に行き、同行の小足媛(おたらしひめ)との間に出来た子に「有間皇子(ありまのみこ)」と名付けた(有間皇子は天智天皇によって謀殺されたと言われている)。
 天皇の湯治には行宮(あんぐう・仮御所)が必要だが、孝徳天皇の“武庫行宮”は阪神競馬場北隣にあった。「美幸(御幸)町」とか「御所の前町」という競馬場北の地名はその名残というのが足利健亮の主張である。
 阪神競馬場の北には行宮があった。行宮があるということはひょっとして都と呼ばれる可能性もあったということだ。武庫川西遷都があった可能性もある。
 もちろん行宮があったとされる場所は、日本各地に残る。淀の近く石清水八幡宮にもある。これはごく近代、明治天皇の行宮である。
 東京遷都の前に、大久保利通によって大阪遷都が主張されたことがあるが、このとき明治天皇は鳥羽伏見の戦いの直後、その最激戦地・淀のあたりを通り、石清水八幡宮を行宮として(徳川慶喜が軍艦で逃げ出した)大阪まで行った。
 大阪遷都は結局ならず、江戸を東京と呼び替えて東京遷都となった訳だが、この東京遷都も不思議なところが多い。
「天皇賞」と「行幸啓」と「遷都」の話、もう少し書きたい。
 興味のある人はついてきてください。
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