スポンサーサイト
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事のURL | スポンサー広告 | ▲ top
そういえば
2013/01/08(Tue)
003_20130108232514.jpg
そういえば、ぼくは18年前ぐらい前、別冊宝島193「競馬名馬読本2」という本で、ヤマニンウエープという馬のことを書いたことがある。
取材先は新井厩舎の久田金作厩務員だった。
いま、そのときのことを書こうと思ったのだが、文章自体がわがパソコンに残っていたので、これを出すことにする。
要は、このヤマニンウエープ (中村覚之助厩舎、たぶんビートブラックの中村均調教師のお父さんだ。久田金作厩務員担当)が天皇賞勝ったのが、昭和47年(1972年)秋(当時は秋天も3200だった)で、つまり下のロングエース、ランドプリンス、イシノヒカル、タイテエムの4強が3歳クラシックで争っていたその年の秋に勝った訳だ。
つまり、ずいぶん間はあいたが、昭和47年秋天皇賞馬の担当者と、昭和48年春天皇賞馬の担当者を両方知ったわけだ。
この94年の取材当時で、久田さん、65歳近かったから、いまはもう80過ぎか。元気なのかなあ。

[以下、別札宝島「競馬名馬読本2」に書いたヤマニンウエーブについてわが原稿です。ぼくも若かったよなあ]      
 一昨年から大阪のスポーツ紙で予想コラムを書くことになり、“取材”の名目で栗東トレセンに時々出掛けることになった。
 広い敷地に多くの関係者と馬が行き来しているが、誰一人知らない。馬だって、どれがどの馬かさっぱり見分けがつかない。「困ったなあ」と何度も溜息が出るが、意を決して一つの廐舎に飛び込む。ジンクタモンオーという、どうしても見てみたい馬がいた。
 タモンオーは91年小倉3歳ステークスを好タイムで圧勝し、間違いなくクラシック級だと言われながら、突然ゲートから出なくなった。ゲート入りの悪い馬というのはいても、ゲートが開いてるのに走らないというのは前代未聞だと言われた。地下鉄の改札を出たところで、壁に手をつき、イヤイヤしている“出社拒否願望”のお父さんを見るようで、大きな興味がわいた。
 「ジンクタモンオー、見せてもらえますか」上ずった声が出る。何しろ、廐舎という所、偏屈で怖い人が多いと聞いていたから、緊張の一瞬だ。
 廐舎の外で寝ワラを片付けていた廐務員がゆっくり振り向く。
 「あの、ジンクタモンオー・・」と繰り返すと、「ああ、アンダ」と廐務員は顎で示す。 「中、入っていいですか?」
 「ああ、カンジルクセアルデナ、キィツケネバナンネド」
 よく聞き取れず、「何じゃ?」と思ったが、オズオズ中に入る。500キロを超すタモンオーが時々ニッと歯を剥いて、やっと納得した。「噛む(カジル)癖があるから気を付けろ」と言ってくれてたんだ。
 それが久田(きゅうでん)金作廐務員との最初の会話だった。突っ込んだことを聞くと「テキ(調教師)に聞いてくれ」と答えてくれない廐務員が多い中、久田金作は訪ねるたび、タモンオーのことはもちろん、廐舎スラングから、馬のウンコ・シッコやオナニーのことまで、独特の津軽弁で教えてくれた。
 この人が昭和47年秋の天皇賞馬ヤマニンウエーブを手掛けた、ということは大分あとになってから知った。
 久田金作は昭和3年、十和田の生まれ。故郷の苫米地(とまべち)牧場にいたが、41才のとき中京競馬場・中村覚之助廐舎に来た。生産専門から育成牧場へ事業を拡大するための研修ということで、1、2年で青森に帰る予定だった。
 その年、同じように北海道から2才で入廐してきた馬が、廐舎の片隅にいた。3才になっても、岩陥(いわおち)とよばれる筋肉欠損のため、左前脚がスムーズに出ない。廐舎では「乗馬に下ろすしかないか」と言われていた。それを「ダメで元々」で世話し始めたのが研修生・久田金作。ちょうどこの年、関西競馬サークルでは“栗東トレセン大移動”が行われ、廐舎では見込みのない馬に手間暇をかけていられなかった。ヤマニンウエーブと久田金作にはいくつかのラッキーが重なっていたのだ。
 「でも、結果としては、ヤマニンウエーブが久田さんを青森へ帰らせないようにした訳だよね」廐舎の前にしゃがみ込んで話を聞く。
 「まあ、そうも言えるども、何と言うてもネサ、牧場よりこっちの方が楽だかんな」久田金作は地べたに、石ころで「楽」という字を書いた。「それにキュウリョもいがったしな」今度は「給料」という字を書いた。
 6才秋に、生涯ただ一度のピークを迎えたヤマニンウエーブ。私は、廐舎の前の地べたに書かれた「楽」と「給料」の二つの字を見て思った。“晩成の一発馬”は恐らく担当廐務員から“津軽の粘着”を受け継いでいたのだ。
 帰り際、「今年(93年)一杯で65歳の定年だからヨ」と呟きながら、久田金作はまた地べたに地図を書き始める。
 「ここに橋があって・・、ここが滋賀銀行だろ・・、そんで、ここんとこがウチだからよ、いつでも遊びに来たらイイベ」
 定年後も青森には帰らず、栗東で暮らすそうだ。タモンオーは美浦転廐、久田金作は定年退職。トレセン行き始めてわずか2年だが、それでも時は流れている。

 これで原稿終わるつもりだったが、締め切り直前、いい写真見つけた。JRAピーアールセンターにあった『優駿』昭和48年1月号。これがヤマニンウエーブと、23歳・この年リーディングに輝いた天才福永洋一と、44歳・若き日の久田金作です。

スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
<<ハナズの次はポツプ | メイン | 誰でしょう?>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

   ▲ top

トラックバック
トラックバックURL
→http://norimine.blog25.fc2.com/tb.php/837-dfd1338d

  ▲ top

| メイン |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。